クリニック・診療所のM&A・事業承継|相場・流れ・行政手続きを解説
クリニックのM&A・事業承継を、個人開業と医療法人の違いから解説します。承継スキーム3パターン、事業会社が買えない理由とMS法人の活用、譲渡価格を左右する要素、そして保険診療を止めないための保険医療機関の指定・遡及指定の実務まで整理しました。
「そろそろ引退を考えているが、後を継いでくれる医師が見つからない」。院長の高齢化と後継者不在は、いま多くのクリニックが直面している問題です。廃業を選べば、通っていた患者は行き先を失い、スタッフは職を失い、そろえた医療機器も散り散りになってしまいます。
クリニックのM&Aは、その事業と患者をまるごと次の担い手に引き継ぐための選択肢です。ただし一般的な会社の売買とは進め方が大きく異なります。個人開業か医療法人かで使えるスキームが変わり、そもそも買い手になれる相手が限られ、さらに保健所と厚生局の手続きを間違えると保険診療が止まってしまうという、医療機関ならではの制約があるためです。
この記事では、開設主体による3つの承継パターン、誰がクリニックを買えるのか、承継方法ごとの違い、譲渡価格の考え方、費用と補助金、そして引き継ぎでつまずきやすい行政手続きまでを順に整理します。譲渡を考えている院長と、クリニックの譲受を検討している方の双方に向けた内容です。
クリニックのM&A・事業承継が増えている背景
まずは、なぜクリニックでM&Aが選ばれるようになったのかを押さえておきます。背景を理解しておくと、交渉の場で相手が何を重視しているかが読めるようになります。
院長の高齢化と後継者不在
クリニックの経営者である院長の高齢化が進んでいます。かつては子どもが医師になって医院を継ぐ形が一般的でしたが、子が医師になっても専門分野が違えば引き継げず、勤務医としての道を選ぶケースも増えています。親族内での承継が前提にできなくなったことが、第三者への承継が広がった最大の理由です。
同時に、医師や看護師をはじめとする医療従事者の不足も深刻です。地域の医療提供体制そのものを維持するために、既存のクリニックを引き継ぐという選択が現実的な意味を持つようになりました。
廃業とM&A、どちらが院長にとって有利か
後継者が見つからないとき、選択肢は大きく2つに分かれます。廃業するか、第三者に引き継ぐかです。
【廃業を選んだ場合に起きること】
- 通院していた患者が、別の医療機関を探さなければならなくなります
- 看護師・受付スタッフの雇用がなくなります
- 医療機器やレセプトコンピュータは中古の売却額しか回収できません
- 内装の撤去やテナントの原状回復に費用がかかります
- カルテは廃業後も法定の期間、保管する義務が残ります
これに対してM&Aで引き継げば、患者・スタッフ・設備・立地がひとまとまりの価値として評価されるため、譲渡対価を受け取れる可能性があります。原状回復の費用も発生しません。
ただしM&Aは相手が見つかって初めて成立するものです。院長の年齢が上がるほど引き継ぎに使える時間は短くなるので、廃業を決める前に、まず引き継げる相手がいるかを確かめるという順序が大切になります。実際にどのような案件が動いているかは、以下から確認できます。
開設主体で変わる3つの承継パターン
クリニックのM&Aで最初に確認すべきことは、そのクリニックが個人開業なのか医療法人なのかです。ここが違うと、使えるスキームも手続きの重さも別物になります。
まずは自院が個人開業か医療法人か、それだけを確認してください。この違いで、以降で読むべき内容の大半が決まります。
最初に確認するのは「個人開業か医療法人か」
個人開業(個人医院)とは、医療法人の設立登記をしていない個人が経営するクリニックです。事業は院長個人に帰属しているため、譲り渡せるのは法人ではなく事業そのものになります。
一方の医療法人は、都道府県の認可を受けて設立された法人です。さらに医療法人は出資持分の有無で、選べるスキームが変わります。出資持分とは、簡単にいえば医療法人の財産権で、株式会社の株式に近いものです。
ここで押さえておきたいのが、2007年の医療法改正で、出資持分ありの医療法人は新たに設立できなくなったという点です。いま持分ありの医療法人として残っているのは、改正前に設立されたものが経過措置として存続しているケースです。そのため今後の承継案件では、持分なしの医療法人が徐々に増えていきます。
医療法人の種類ごとの違いについては医療法人社団と一般社団法人の違いの記事でも整理しています。
3つのパターンを比較
開設主体ごとの違いを一覧にしました。自院がどれに当てはまるかを確認してから、以降を読み進めてください。
| 開設主体 | 主なスキーム | 対価の受け取り方 | 引き継ぎの特徴 |
|---|---|---|---|
| 個人開業(個人医院) | 事業譲渡 | 院長個人が譲渡対価を受け取る | 許認可は引き継がれず、廃止と開設をやり直します。譲り渡すものを個別に選べます |
| 出資持分ありの医療法人 | 出資持分の譲渡+社員の入替 | 出資割合に応じた払戻を受けます | 法人格ごと引き継ぐため、借入金やリースの残債も承継されます |
| 出資持分なしの医療法人 | 社員・役員の入替 | 払戻がないため、役員退職金などの形をとります | 法人格はそのまま残り、許認可も継続します |
表のとおり、手続きがもっとも重くなるのは個人開業の事業譲渡です。法人格を引き継ぐ形と違い、許認可を新たに取り直す必要があるためです。詳しくは後述します。
個人開業の場合|事業譲渡になる
個人開業のクリニックは、法人そのものの譲渡ができません。そのため事業譲渡というスキームをとります。
流れとしては、現院長が廃業の届出を行い、新院長が改めて開業の届出を行う形です。譲り渡す対象は事業譲渡契約書で個別に決められるため、医療機器・内装・カルテ・スタッフの雇用・テナントの賃借権などをひとつずつ取り決めていくことになります。
注意したいのは、医療機器がリースの場合です。リース契約は自動的には移りませんので、新院長がリース会社と契約を結び直すことになります。
医療法人の場合|持分の譲渡または社員の入替
出資持分ありの医療法人では、社員が保有する出資持分を譲渡する形をとります。ただし株式と違い、出資持分を譲渡しただけでは経営権は移りません。医療法人の意思決定機関である社員総会で承認を得て、社員を入れ替える手続きが別に必要です。
出資持分なしの医療法人では、そもそも払戻を受ける権利がありません。そのため買い手は、役員退職金や顧問料といった形で、退任する側に金銭を支払う設計をとることが一般的です。
いずれの場合も法人格ごと引き継ぐことになるため、資産だけでなく借入金やリースの残債も承継されます。これは包括承継の考え方によるものです。もしデューデリジェンス(DD)で想定外の債務が見つかった場合には、法人格の譲渡から事業譲渡へスキームを切り替えて、引き継ぐ範囲を限定するという選択肢もあります。
医療法人の持分の評価方法については医療法人の事業承継と持分の評価額の記事で詳しく扱っています。
誰がクリニックを買えるのか
ここが一般的なM&Aと最も大きく違う点です。クリニックは、資金があれば誰でも買えるという事業ではありません。
医療法人には非営利性が求められる
医療法人には、営利を目的としないことが強く求められています。医療法は営利を目的とした医療機関の開設を認めない立場をとっており、営利企業である事業会社が医療法人を経営することは認められていません。
具体的には、事業会社は医療法人の社員になることができません。ここでいう社員とは従業員のことではなく、株式会社における株主に相当する立場です。医療法人の意思決定機関である社員総会では、社員は出資額の多さにかかわらず1人1個の議決権を持ちます。
この点は実務上とても重要です。1人の社員が全額を出資していても議決権は1票しかないため、ほかの社員の賛同を得られなければM&Aは成立しません。中小規模の医療法人では社員名簿が整理されていないことも珍しくないので、まず誰が社員なのかを確定させる作業から始まります。
また、医療法人の理事長は原則として医師または歯科医師でなければならないと定められています。医師以外の方が実質的な経営者になろうとする場合は、この要件が壁になります。
買い手になれる立場を整理する
誰がどこまで関与できるのかを一覧にしました。
| 買い手 | 医療法人の経営に直接関与できるか | 実際にとる形 |
|---|---|---|
| 医療法人 | できる | 出資持分の譲渡や社員の入替で経営権を取得します。最も一般的な形です |
| 個人の医師・歯科医師 | できる | 個人開業を事業譲渡で引き継ぐか、医療法人の社員・理事長になります |
| 事業会社(株式会社など) | できない | 選任した人を社員として送り込む、またはMS法人を通じて非医療部門で関与します |
| 医師以外の個人 | 管理者にはなれない | 医師を管理者として置く形が必要です。理事長も原則は医師・歯科医師に限られます |
表のとおり、事業会社が医療法人を直接買うことはできません。ただし関与する道がまったくないわけではありません。次で具体的な方法を見ていきます。
事業会社が関与する2つの方法
事業会社が医療機関の経営に関わろうとする場合、実務では次の2つの形がとられます。
1つ目は、社員として人を送り込む方法です。事業会社そのものは社員になれませんが、事業会社が選任した個人が社員になることは可能です。これにより、社員総会での議決を通じて間接的に経営に関与できます。
2つ目は、MS法人を活用する方法です。MS法人とは「メディカル・サービス法人」の略で、医療行為そのものではなく、経理・医療事務・医療機器の販売やリース・不動産の賃貸などを担う営利法人です。
医療法人は営利目的の事業を行えないため、医療以外の業務を担うMS法人を併設し、そこを通じて収益を得る形が古くからとられてきました。買い手がMS法人の経営権を取得すれば、医療法人の非営利性を保ったまま、周辺業務を通じて事業に関与することができます。
ただしMS法人との取引が不自然に高額であるなど、実質的に医療法人から利益を移していると見られる設計は、税務や行政の指導の対象になり得ます。スキームを組む際は必ず税理士・弁護士に相談してください。
病院を含む医療法人のM&A全体の動向については、以下の記事で扱っています。
クリニックの承継方法は3つ
ここまでスキームと買い手の話をしてきましたが、そもそも誰に引き継ぐかという選択肢は3つあります。第三者へのM&Aは、そのうちの1つです。順に見ていきましょう。
親族内承継|時間をかけて準備できるが条件が厳しい
子や親族に医師がいる場合、もっとも自然な形が親族内承継です。患者やスタッフからの信頼をそのまま引き継げるうえ、数年かけて段階的に移行できるという利点があります。
ただし条件はかなり限定的です。子が医師になっていても、専門分野が違えば同じ診療を続けられません。内科の医院を継ぐのに、子が外科や麻酔科を専門にしていれば、患者層をそのまま引き継ぐことは難しくなります。
また出資持分ありの医療法人では、持分を無償または低額で移すと贈与税の対象になり得ます。持分の評価額が高くなっているケースでは税負担が重くなるため、早い段階で税理士に相談して、評価額と納税額の見通しを立てておくことが欠かせません。
ここで押さえておきたいのが認定医療法人制度です。持分ありの医療法人が持分なしへ移行する場合、出資者が持分を放棄することで原則として医療法人に贈与税が課されますが、一定の要件を満たして認定を受けた医療法人が移行する場合には、この贈与税が課されません。相続・遺贈で持分を取得した場合の相続税についても、認定移行計画に記載された期限まで納税を猶予できる仕組みがあります。
注意したいのは、これは株式会社を対象とした事業承継税制とは別の制度だという点です。医療法人の出資持分は株式ではないため、法人版の事業承継税制はそのまま使えません。混同すると税額の見通しが大きく狂います。
また認定の申請には期限が設けられています。2023年度の税制改正で2026年12月31日まで延長されましたが、利用を検討するなら早めに税理士へ相談してください。移行後も一定期間は要件を満たし続ける必要があり、持分という財産権を手放すことの意味も含めて判断する話になります。持分の評価については医療法人の事業承継と持分の評価額の記事でも扱っています。
従業員承継|引き継ぎは滑らかだが資金が壁になる
院内で働く勤務医に引き継ぐ方法です。診療方針や患者の事情を理解しているため、引き継ぎがもっとも滑らかに進み、患者の離脱も少なくなります。スタッフの心理的な抵抗も小さく済みます。
最大の壁は資金です。勤務医が個人で譲渡対価を用意できるケースは限られるため、金融機関からの融資、退職金との相殺、複数年に分けた分割払いなどを組み合わせた設計が必要になります。
なお、勤務医に譲渡する場合も第三者への譲渡と同じ手続きが必要です。身内のようなつもりで契約書を省略すると、後から条件の解釈で揉めます。譲渡する範囲と金額は必ず書面に残してください。
第三者へのM&A|選択肢が広く、対価を受け取りやすい
親族にも院内にも後継者がいない場合の選択肢です。近年のクリニック承継では、この形が中心になりつつあります。
相手の候補は、開業を目指す勤務医、分院展開を進めたい医療法人、地域での医療提供体制を維持したい法人など多岐にわたります。候補が広いぶん、条件を比べて選べることが第三者M&Aの強みです。
一方で、相手探しには時間がかかります。また譲渡後は院長が交代するため、診療方針や診療時間が変わる可能性も受け入れる必要があります。後継者不在という課題全般については後継者不足はM&Aで解決できるの記事もあわせてご覧ください。
3つの承継方法を比較
それぞれの向き不向きを整理しました。
| 承継の方法 | 向いているケース | つまずきやすい点 |
|---|---|---|
| 親族内承継 | 子や親族に医師がいて、同じ診療科を継いでもらえる場合 | 子が医師でも専門分野が違えば継げません。相続税・贈与税の検討も必要になります |
| 従業員(勤務医)への承継 | 診療方針を理解している勤務医がいる場合 | 買い取り資金を用意できないことが多く、融資や分割払いの設計が必要になります |
| 第三者へのM&A | 親族にも院内にも後継者がいない場合 | 相手探しに時間がかかります。診療方針が変わる可能性も見込む必要があります |
実務では、まず親族内を検討し、次に院内を探し、それでも見つからない場合に第三者へ、という順で進むことが多いです。ただしこの順で時間を使いすぎると、院長の年齢や体力の面で選択肢が狭まっていきます。並行して第三者の候補も見ておくほうが安全です。
クリニックの譲渡価格はどう決まるのか
「うちのクリニックはいくらで売れるのか」は、院長がもっとも知りたいところだと思います。ここでは価格の決まり方の考え方を整理します。
基本は「時価純資産+営業権」
クリニックの譲渡価格は、多くの場合時価純資産に営業権を足すという考え方で組み立てられます。
時価純資産とは、資産と負債を時価に評価し直したうえで差し引いた金額です。医療機器や内装の現在価値、預金、未収の診療報酬などが資産に、借入金やリースの残債が負債に入ります。詳しくは時価純資産法の記事で解説しています。
営業権は、いわゆるのれんにあたる部分です。決算書には表れない、そのクリニックが生み出す収益力を金額に置き換えたものです。患者がついていること自体が価値として評価される、と考えると分かりやすいでしょう。
営業権は数年分の利益を目安に評価されることが多いものの、何年分とするかは案件ごとの交渉で大きく変わります。診療科や立地、患者の年齢構成によって将来の見通しが違うため、一律の計算式にはなりません。企業価値の算定方法全般についてはバリュエーションの記事で扱っています。
価格を左右する要素
同じ規模のクリニックでも、次の要素で評価は変わります。
- 患者数とレセプト枚数の推移:直近数年で増えているか減っているか
- 患者の年齢構成:高齢の患者に偏っていると、将来の患者数の見通しが下がります
- 立地と通院しやすさ:駅からの距離、駐車場の有無、周辺人口
- 競合の状況:同じ診療科のクリニックが近隣にどれだけあるか
- 医療機器の状態:買い替え時期が近い機器が多いと、その分が価格から差し引かれます
- スタッフの定着:看護師や受付が残ってくれるかどうかは、買い手にとって大きな判断材料です
- テナントの契約条件:賃料水準と契約期間、そして貸主が名義変更に同意するか
このなかでも営業権に直接効いてくる点が患者数の推移です。患者数が減少傾向にあるクリニックは将来の収益力が下がると見られるため、営業権は小さく評価されます。逆に増加傾向であれば、同じ利益水準でも高く評価されやすくなります。診療圏の人口が減っている地域では、この見方がより厳しくなります。
買い手が特に重視するのがスタッフの定着とテナントの契約条件です。患者と医療機器は引き継げても、働く人が一斉に辞めたり、テナントを追い出されたりすれば、事業として成立しません。ここを整えておくことが、結果として価格にも効いてきます。
相場の幅が大きいのはなぜか
クリニックの譲渡価格を調べると、数百万円から数億円まで非常に幅のある数字が出てきます。これは診療科・規模・立地・法人格の有無がそれぞれ違うため、平均値にあまり意味がないからです。
自院の水準を知りたい場合は、実際に売り出されている案件の希望価格を見るのがもっとも早い方法です。診療科や地域で絞って眺めると、条件の近い案件がどのくらいの価格帯で出ているかがつかめます。
クリニックのM&Aにかかる費用と使える補助金
譲渡価格とは別に、M&Aを進める過程で費用が発生します。あわせて公的な支援制度も確認しておきましょう。
発生する費用の内訳
クリニックのM&Aで想定しておきたい費用は次のとおりです。
- 仲介会社・アドバイザーへの手数料
着手金・中間金・成功報酬。詳細はM&A手数料・成功報酬の相場を参照してください - デューデリジェンス(DD)の費用
買い手が負担するのが原則です。財務・税務・法務のどこまで行うかで変わります - 士業への報酬
契約書の作成やレビュー(弁護士)、税務の検討(税理士) - 行政手続きの実費と代行費用
保健所・厚生局への届出。行政書士に依頼する場合はその報酬 - 登記費用
医療法人の役員変更登記など
ここで見落としやすいものが成約しなかった場合に返ってこない費用です。着手金や中間金は、M&Aが不成立でも返還されない旨が合意されているケースがあります。契約前に返還の条件を必ず確認してください。
なお、M&Aプラットフォームを使って自力で相手を探せば、手数料の大きな部分である仲介報酬を抑えられます。そのうえで契約書のチェックやDDだけを専門家に依頼する形なら、必要な安全性を確保しながら総額を下げられます。
事業承継・M&A補助金を確認する
クリニックの承継でも、国の補助金が使える場合があります。専門家に支払う費用の一部が対象になり得るため、相談を始める前に制度の内容と公募の時期を確認しておくと、負担を抑えられます。
注意点は、補助金には公募期間があり、交付が決まる前に契約してしまうと対象外になることがあるという点です。使う可能性があるなら、専門家との契約より先に制度を調べる順序が大切です。制度の詳細は以下の記事で解説しています。
買い手が資金をどう用意するか
買い手側の視点も押さえておきましょう。譲渡対価と開業後の運転資金をどう用意するかは、交渉の進み方に直接影響します。
勤務医が個人で承継する場合、日本政策金融公庫や医師向けの融資に対応する金融機関からの借入が中心になります。金融機関は「引き継いだ後も患者が来続けるか」を見るため、患者数の推移やレセプトの実績が審査の材料になります。売り手側がこうした資料を整えておくと、買い手の資金調達がスムーズになり、成約までの期間も短くなります。
また、譲渡対価を一括ではなく分割にしたり、一部を退職金の形にしたりといった設計も実務では行われます。税務上の扱いが変わるため、必ず税理士に確認してから決めてください。
引き継ぎで詰まる行政手続き|保険診療を止めないために
クリニックのM&Aで実務上もっとも神経を使う作業が、行政手続きです。手続きの順番と時期を間違えると、開院しているのに保険請求ができない期間が生まれます。売り手も買い手も、必ず押さえておきたい部分です。
保健所での手続き|廃止と開設をやり直す
個人開業のクリニックを事業譲渡で引き継ぐ場合、許認可は自動的には移りません。そのため現院長が廃止の届出を行い、新院長が改めて開設の手続きを行うことが必要です。
保健所に対して必要になる主な手続きは次のとおりです。
- 診療所廃止届:現院長が提出します
- 診療所開設届(または開設許可申請):新院長が提出します。医師が開設する診療所は届出、それ以外が開設する場合は事前の許可が必要です
- エックス線装置の廃止・設置の届出:レントゲンを設置している場合に必要です
- 各種の施設基準の届出:現院長が届け出ていた基準は引き継がれないため、新院長が改めて届け出ます
手続きの細かい運用は自治体によって異なります。着手する前に管轄の保健所に相談しておくと、書類の不足で時期がずれる事故を防げます。
保険医療機関の指定は「開設者が変わるか」で決まる
保健所の手続きとは別に、厚生局への保険医療機関の指定申請があります。ここが承継の形によって必要かどうか分かれます。
指定申請が必要になるのは、開設者が死亡やその他の理由で変更したとき、経営主体が個人から法人へ(またはその逆へ)変わったとき、所在地が変わったときなどです。一方で法人の代表者が変わっただけの場合は、指定申請の対象になりません。
| 承継の形 | 保険医療機関の指定申請 | 主な手続き | 注意点 |
|---|---|---|---|
| 個人開業を第三者へ事業譲渡(開設者が変わる) | 必要 | 現院長が廃止届、新院長が開設届を提出し、厚生局へ指定申請 | 遡及指定を受けないと、保険診療ができない期間が生じます |
| 個人開業を医療法人化(個人から法人へ) | 必要 | 個人の廃止届、法人の開設許可・開設届、厚生局へ指定申請 | 医療機関コードが新しく付与され直します |
| 医療法人の持分譲渡・社員入替(法人の代表者が変わる) | 不要 | 法人の登記変更と、都道府県への届出 | 開設者は法人のままなので、指定はそのまま継続します |
この表がクリニック承継の実務の骨格です。医療法人を引き継ぐほうが手続きが軽く、個人開業の事業譲渡がもっとも重いという関係になります。先に見たスキームの選択は、この手続きの重さにも関わってきます。
遡及指定という救済措置がある
指定日は原則として、地方社会保険医療協議会の答申を受けた翌月1日です。つまり普通に申請すると、開院してから指定を受けるまでに空白期間ができてしまいます。
ここで使えるのが遡及指定です。次のいずれかに当てはまり、かつ第三者の権利関係に不利益を与えるおそれが全くない場合には、例外的に指定期日をさかのぼって指定を受けることができます。
- 開設者が変更になった場合で、前の開設者の変更と同時に引き継いで開設され、患者が引き続き診療を受けている場合
- 開設者が個人から法人組織に、または法人組織から個人になった場合で、患者が引き続き診療を受けている場合
- 病院から診療所に、または診療所から病院になった場合で、患者が引き続き診療を受けている場合
- 至近の距離に移転し、同日付で新旧の医療機関を開設・廃止した場合で、患者が引き続き診療を受けている場合
そして開設者変更には、経営譲渡や合併により引き続き開設者となる場合を含むとされています。つまりクリニックの第三者承継は、遡及指定の対象になり得るということです。
ここから読み取れる実務上のポイントが3つあります。
1つ目は、遡及の条件がどれも「患者が引き続き診療を受けている」ことだという点です。つまり診療を止めずに引き継ぐことが、保険請求を切らさないための条件になります。改装のために長く休診してから再開する段取りは、遡及が使えなくなるリスクを抱えます。
2つ目は、事前相談が前提という点です。遡及指定を希望する場合は必ず事務所等に事前相談をするよう案内されており、該当する事由が生じた後は速やかに申請する必要があります。事後に頼んで通してもらう性質のものではありません。
3つ目は、遡及が使えても施設基準の届出は別に必要だという点です。開設者の変更による指定申請でも、施設基準等の各種届出は改めて求められます。
締切から逆算してクロージング日を決める
指定申請の提出期限は厚生局の管轄事務所ごとに異なります。毎月15日や20日など事務所によって設定が違い、変更されることもあります。
そのため実務では、クロージング日を先に決めてから手続きを始めるのではなく、管轄の締切と指定日を確認してからクロージング日を逆算することが安全です。締切を1日過ぎると、指定がまるごと1か月後ろにずれます。
あわせて、法人組織へ変更する場合は社会保険への加入手続きも必要になります。年金事務所での手続きが漏れやすいので、チェックリストに入れておいてください。M&A全体の流れはM&Aの流れ11ステップの記事で確認できます。
参考:東海北陸厚生局「記載要領(手続きの流れについて)」(管轄の厚生局のページで最新の運用を確認してください)
カルテ・患者・スタッフをどう引き継ぐか
行政手続きと並んで、実際の引き継ぎで問題になりやすいのが「カルテ」「患者」「スタッフ」の3つです。ここを丁寧に進められるかどうかで、承継後の患者数が変わります。
カルテの引き継ぎと保存義務
診療録(カルテ)には、法令で一定期間の保存義務が定められています。承継にあたっては、保存義務を誰が引き継ぐのかを契約書で明確にしておく必要があります。
患者の診療情報は個人情報にあたりますが、事業の承継に伴って個人データが引き継がれる場合は、第三者への提供にはあたらないという考え方が個人情報保護のルール上とられています。ただし引き継いだ後も、もとの利用目的の範囲を超えて使うことはできません。
紙のカルテを引き継ぐ場合は保管場所と量を、電子カルテの場合はシステムの引き継ぎ可否とデータの移行方法を、早い段階で確認してください。電子カルテのベンダーが変わるとデータをそのまま移せないことがあるため、ここは見落とすと後で大きな手戻りになります。
あわせて確認したい点が、電子カルテの保守契約とライセンスの引き継ぎ条件です。契約が現院長の個人名義になっていると、承継にあたって再契約や名義変更が必要になります。リース契約と同じく、自動的には移らない契約があると考えて、早い段階で洗い出しておくと安全です。
患者への伝え方と伝える時期
患者への告知は、クロージングが確実になってから行うのが原則です。交渉段階で情報が漏れると、承継が成立する前に患者が他院へ移ってしまい、クリニックの価値そのものが下がります。
伝える際に患者が気にするのは、次の点です。
- 診療は続くのか、休診期間があるのか
- 院長は誰に変わるのか、どんな経歴の医師か
- 診療時間や予約の方法は変わるのか
- これまでの治療の経過は引き継がれるのか
院内の掲示とウェブサイトでの告知に加えて、継続的に通院している患者には診察の場で直接伝えるのがもっとも効果的です。前院長から新院長を紹介する形をとれれば、患者の不安は大きく下がります。可能であれば、引き継ぎ期間に両者が並んで診療する時期を設けることも検討してください。
スタッフの雇用を守る
個人開業を事業譲渡で引き継ぐ場合、雇用契約は自動的には移りません。現院長がいったん雇用契約を終了し、新院長が改めて雇用契約を結ぶ形になります。
ここで注意したい点が、スタッフには承継後の勤務を断る自由があるということです。給与や勤務条件が下がれば、当然辞める人が出ます。看護師や医療事務の採用は簡単ではないため、買い手にとってスタッフの残留は譲渡価格に直結する要素です。
実務では、有給休暇の残日数や勤続年数をどう扱うか、退職金を現院長が精算するのか新院長が引き継ぐのかといった点が論点になります。ここは事業譲渡契約書で決めておく事項です。
一方で医療法人の持分譲渡や社員入替であれば、法人格が変わらないため雇用契約はそのまま継続します。この差もスキーム選択の判断材料になります。
クリニックのM&Aに関するよくある質問
最後に、クリニックの承継を検討する方からよく寄せられる質問をまとめました。
Q1. 事業会社(株式会社)はクリニックを買えますか?
A. 医療法人を直接買うことはできません。医療法は営利を目的とした医療機関の開設を認めない立場をとっており、事業会社は医療法人の社員になれないためです。ただし、選任した個人を社員として送り込む形や、MS法人を通じて非医療部門で関与する形はとられています。スキームを組む際は必ず税理士・弁護士に相談してください。
Q2. 医師でない個人でもクリニックを買えますか?
A. 診療所の管理者は医師でなければならないため、医師以外の方が自ら院長になることはできません。医療法人の理事長も、原則として医師または歯科医師に限られます。医師を管理者として立てる形が前提になります。
Q3. 赤字のクリニックでも譲渡できますか?
A. 譲渡できるケースはあります。買い手が見ているのは直近の利益だけではなく、患者数、立地、診療圏の人口、医療機器の状態などです。赤字の原因が院長の高齢化による診療時間の縮小であれば、新院長が通常の診療体制に戻すだけで改善する見込みが立ちます。ただし営業権はつきにくくなるため、時価純資産に近い水準での交渉になりやすいです。
Q4. 承継にはどれくらいの期間がかかりますか?
A. 相手探しから引き継ぎ完了までは、半年から1年以上を見込むのが一般的です。加えて保険医療機関の指定申請は月1回の締切があり、管轄の厚生局ごとに提出期限が異なります。クロージング日は締切と指定日から逆算して決めてください。
Q5. 患者やスタッフにはいつ伝えるべきですか?
A. クロージングが確実になってからが原則です。交渉段階で漏れると患者の離脱やスタッフの退職を招き、承継そのものが成立しなくなる恐れがあります。ただしスタッフのうち、引き継ぎ実務に関わる必要がある方には、秘密保持の取り決めをしたうえで早めに共有する場合もあります。
Q6. 医療法人を引き継ぐと借入金も引き継ぎますか?
A. 引き継ぎます。持分譲渡や社員入替は法人格ごと承継する形なので、資産だけでなく借入金やリースの残債も一緒に移ります。デューデリジェンスで想定外の債務が見つかった場合は、引き継ぐ範囲を限定できる事業譲渡へスキームを切り替える選択肢もあります。
まとめ|まず「個人開業か医療法人か」を確認することから
クリニックのM&Aは、一般的な会社の売買とは進め方がかなり違います。出発点になるのは、そのクリニックが個人開業なのか医療法人なのか、医療法人であれば出資持分があるのかという確認です。ここが決まらないと、使えるスキームも手続きの重さも、譲渡対価の受け取り方も定まりません。
買い手の側にも制約があります。医療法人を直接買えるのは医療法人か個人の医師で、事業会社は社員になれません。関与する道がないわけではありませんが、社員の送り込みやMS法人の活用といった設計が必要になり、税務や行政の観点からの検討が欠かせません。
そして実務でもっとも事故が起きやすいのが行政手続きです。個人開業を事業譲渡で引き継ぐ場合は保険医療機関の指定申請が必要になり、遡及指定を受けられなければ保険請求ができない期間が生まれます。遡及の条件はどれも「患者が引き続き診療を受けている」ことなので、診療を止めない段取りを組むことが要になります。
準備の段階で押さえておきたいのは、次の3点です。
- 自院の開設主体と、出資持分の有無を確認する
- スタッフの残留とテナントの契約条件を整えておく(価格に直結します)
- 管轄の厚生局の締切と指定日を確認し、クロージング日を逆算する
そのうえで大切なのが、実際にどのような相手がいるかを知ることです。廃業を決めてしまう前に、引き継いでくれる相手が本当にいないのかを確かめてみてください。TRANBIには医療機関の案件も掲載されており、診療科や地域で絞って探せます。掲載も登録も無料で始められますので、まずは相場感をつかむところからでも構いません。
